051. ~ 060.

051. 山は高い
052. 青春18
053. 綿 COTTON
054. 橋を架ける
055. CANCELLED
056. 円相場(ドル)
057. 海峡
058. 失われしもの
059.
060.


051. 山は高い



 自然豊かな「山国」「島国」日本 当時 山といえば 毎年のように初日の出を見に登った太郎山(1164m)か 学習院中等科の1年下の登山旅行に山頂で出くわした烏帽子岳(2066m)か 忘れもしない1973年2月6日の浅間山(2568m)の大噴火(下図)(校舎のベランダから良く見えた 授業どころではない)か リフトで行くスキー場の山頂ぐらいしか接点がなかったが・・・


 また、幼少のころの年末年始 NHK夜7時のニュースで あの勇ましいテーマ音楽の後「長野県警によると 北アルプス〇〇岳で 雪崩に巻き込まれとか 滑落したとか 悪天候の中 ~~が遭難した模様 救難ヘリコプターによる捜索が~とか 夜を徹しての救難隊による捜索活動が続いている~とか」の報道がよくあった そのレポートがまさに真に迫っており 何か寒々とした臨場感・緊迫感・緊張感があった 「寒いだろうなあ」「なんでこんな時に登っているんだ」とかいろいろ思っていた

 バックパックでいろいろ旅はしていた当時 よく山旅に行くという友人に 槍ヶ岳(3180m)に誘われる 経験がほぼないが 5泊6日らしい 二つ返事で行くことに

 歩けば日本も広く 上高地~槍ヶ岳~富山湾 確か 5泊6日か 6泊7日 よく覚えているが 初日は大雨 いよいよ登山道に入るぞというときに 濁流の川を丸太2本の橋を渡る 生まれて初めての恐怖感を味わう 滑って落ちたらお陀仏 まだ始まってもいないのにいきなりこれか!とも思ったが 意外にスンナリ 後は ひたすら歩く 2日目からは ずっと天気には恵まれる


 山小屋・山歩き・焚火・寝袋・昼寝・清水・満天の星・日の出・雲海・お花畑・雷鳥にも会った 素晴らしい日々!これ以降 山歩きに はまることに まあ ハイキングみたいなものですが 夏の尾瀬 秋の丹沢 夏の高尾山 秋の白根山・・冬は行かない 冬山は怖くて寒い 春も行かない まだ寒い

 この山旅で ヘリコプターに 2度遭遇している 槍を目の前にして登っていた時 山小屋に物資を運ぶのか 何かを運び出すのかで ヘリコプターがホバリングしている なんと そのヘリコプターが吊っていたドラム缶を落としたのである そのドラム缶はものすごい音を立て ものすごいスピードで僕らの脇を転げ落ちていったのである「まったくとんでもねえ」その夜はその山小屋に泊ったのだが(その周辺にテント泊だったかも)山小屋の人は それについて話題にも出さない

 もう一回は 鎖だったか 梯子だったかを登り 槍の頂上に立った時 そこには5~6人ほどがいたが 報道ヘリコプターが僕らの頭の上に飛んできてカメラを回したのだ 操縦士の顔も見える 僕らは狂喜乱舞「ヤッター ヤッホー」「俺も乗せてくれえ」「助けてくれえ~」「ここに降りてこーい」「どっかに連れてって~」「うるせいぞ~」「ここから降ろしてくれえ」「写真送ってくれえ」とか 最高潮 あの時の写真欲しかったなあ

 この登山で学んだことがある 疲労困憊していた時 友人の声「半歩でも前に歩けば 少しでも前に進める 前進する 目的地に近ずく」これを実践できたこと それが真実だと実感できたことだ 半歩でも 歩みを進めることだ その後の人生に大きく影響する こうして「2度の死の恐怖」(!?)を乗り越えることができた(!?)


 この山旅の数年後に行った ヨルダンの死海が -430m 槍ヶ岳が 3180m(日本で5番目の高さ)それでもまだまだ 高低差3610m 世の中には 高い山はたくさんあります 日本一の山 富士山には一回は登りたいなとも思っている

 ちょっと意味合いは違いますが 「分け入っても分け入っても青い山」(種田山頭火)「幾山河超えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」(若山牧水)

・上図出典:ウォールデン軽井沢

 息子と浅間山の火口を見に行ったことがある 噴煙は止んでいたが レベル幾つかの登山危険情報が出ておった 火口の周りを半周ほどして 休んでいると 1人のハイカーに声をかけられる 火口の東西南北の何処に行ったのかと どうやら場所によって有毒ガスが観測されているらしく 肝を冷やした 新聞沙汰になるところだった

 そんな彼は 大学でワンゲルの部長をした 0泊2日の富士登山も何度かしたらしい いつもあまり混雑のない9月の後半らしい 2014年9月27日の御嶽山噴火の際「大丈夫 行ってないから」とのメールが届く



 たった一度の人生ですが いろいろなことがあるんだろう「人生 山あり谷あり」噴煙が上がったり・山崩れがあったり・源流を見つけたり・山寺で修行したり・お花畑で昼寝したり・秘湯に入ったり・スズメバチに襲われたり・清水で喉が潤ったり・滑落したり・道に迷ったり・熊に遭遇したり・人によっては妖精に逢ったり・間違って毒キノコを食って幻想を見たり・・・山は高く 人生は楽しい

・(1984年2月13日)植村直巳 北米マッキンリーの冬季単独初登頂に成功 下山途中に行方不明に 最後に消息が確認されたのが2月13日(命日とされる)


・「山は高い・・」こんな 本もあります


 (「少年よ大志を抱け Boys, be ambitious」と北の寒空の下 クラーク博士も言ってるぞ(以下 全文:少年よ、大志を抱け!お金のためではなく 私欲のためでもなく 名声という空虚な志のためでもなく 人はいかにあるべきか、その道を全うするために、大志を抱け)」
  「白鳥は哀しからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ」(若山牧水))




052. 青春18

 東京駅 23:10 出発 岐阜の大垣駅 5:45 到着 夜行快速「ムーンライトながら」(2021年3月 運行終了)
「青春18きっぷ」で人気の 寝ている間に 遠くまで連れて行ってくれる 貴重な 夜行快速列車「ムーンライト」は これですべて廃止に


・「青春18きっぷ」:旅客鉄道会社全線(JR線)の普通列車 快速列車が12.050円(大人・子供同額)で1日乗り放題を5回利用可能(1日あたり2.410円)販売および使用期間限定の特別企画乗車券(トクトクきっぷ)(他に細則あり)(Wikipediaより 一部加筆)


 寝ている間に 遠くまで連れて行ってくれる 貴重な交通機関は 今は もはや「夜行バス」そして「夜行フェリー」だけ
 そして「青春18」を使うんだったら まず目的地近くまで「格安航空会社(LCC)」で飛び 現地~帰途で「青春18」を利用する そんな使い方をお勧めします

 1982年の確か 春 「旅がしたい」「金がない」「青春18」「光州事件(1980年5月)」「国際航路」「釜山港」「海峡」「京都」「ついでに 姫路城・鳥取砂丘・津和野・萩・秋芳洞」プランや動機は山ほど で、 「青春18と関釜フェリーで行く旅」へ


 旅して 印象に残ったこと「修学旅行以来の京都・姫路城・鳥取砂丘・津和野・萩・秋芳洞観光 目的とした各観光地はそれぞれ いちいち 感動的!」「下関出港」「釜山入港」「オンドルの暖かさ」「終わっていない光州事件」「めっちゃ寒い光州の夜の屋台・酒」「韓国の貧しさ・寒々しさ・薄暗さ」「釜山 市場街の雑踏・元気のよいおばちゃん」「海鮮鍋」「夜行列車や関釜フェリーで言葉を交わした旅人」「帰路に寄った 有馬温泉」(いい湯でしたァ)
  当時の韓国は「粛軍クーデター」や「光州事件」後の全斗煥~盧泰愚と続く 暗黒の時代(金大中の大統領就任は 1998年2月25日)



・隣国なのに!!! 下記は ほんの一例ですが 大体同じ様な傾向を示す





香港  「I LOVE HKG」でした 短期駐在も含め もう何回も行ったから もういいか !? あの自由な雰囲気と活気 世界一の夜景 永遠でいてほしかった。 
台湾  台湾よ 台湾こそ永遠にそのままでいて欲しい いつでも気軽に行ける「台湾」でいてほしい 香港のようになってもいいと思っている人はいないはず。
中国  何十回も行った中国 行ききれないデカい国・深い歴史の国 しかし 今行きたいのは「上海・蘇州と古鎮4日間」(24.800円)また 売り出してください。


(航空会社とかに こだわる向きもいるでしょうが LCCで十分なことがほとんど 飛行機はタイムスケジュールで選びましょう 予算と時間を大切にして 最大限のパフォーマンスを
 旅は人生を豊かにします 行き交わしてこそ相手が分かる 行きたい時に 行きたいところへ行けて 充分楽しめるような そんな世界であってほしい)




053. 綿 COTTON

 昨今 H&M ナイキ ZARA Gap パタゴニア アディダス アシックス ミズノ ファストリ 良品計画 しまむら ユナイテッドアローズ BEAMS SHIPS バーバリー ニューバランス等々の馴染みの(一部馴染みではない)アパレルメーカーの名前がニュース番組等でよく聞かれる
  「不買運動にあった」とか「通販ネットから締め出された」とか「以前出した声明を公式HPから削除した」とか「この問題に関するコメントを出さない・ノーコメント」だとか いろいろと報道される この問題

課題① 児童労働・強制労働が関わっている


・上図 出典:Yahoo! JAPAN



・世界の児童労働者1億6000万人 これは世界の子ども人口(5~17歳)のおよそ10人に1人が児童労働をしていることに


・世界の児童労働者の約半分は、アフリカに存在し、およそ4人に1人がこの地域では児童労働者 他の地域では改善が見られていますが、アフリカ地域はこの4年間で増加に転じている


・ILO・UNICEFの共同報告書によると、児童労働者の約70%が農林水産業に従事している
 私たちが普段使うモノの原材料(チョコ、コットン、コバルト)は農林水産業に関係している

・上図 出典:「ILO 児童労働キャンペーン2021」より

課題② ・環境負荷が大きい ・大量生産 / 大量廃棄





・上記 出典:環境省


・(2015年3月17日)米ジーンズメーカーLevi'S「「Water Less process」を通じて2011年以降で10億リットルの水使用量削減に成功」と発表






課題③ 中国 新疆ウイグル自治区問題



・(2020年10月)綿花原料のサステナビリティ(「持続可能性」環境・社会・経済の3つの観点から持続可能にしていくという考え方)の実質的な世界標準になっている認証団体BCI(BETTER COTTON INITIATIVE 本部スイス)(「H&M」や「ナイキ」などのサステナビリティを重視する多くの企業が加盟)
「中国によるウイグル族への強制労働」を理由に 認定の対象から“新疆綿“を外す 中国の反発もありアパレル業界は混乱 多くの日本企業も加盟しているが その対応は様々



 「新疆ウイグル自治区」は まさに中央アジア 中央アジアにしては漢族が多いなあという印象だった 西安・敦煌・トルファン・ウルムチに何度か行った後の1992年「南疆鉄道」がカシュガルまで開通した その直後 ” 世界初 "(現地ガイドの発言)の「南疆鉄道 で行く天山南路~カシュガルの旅」を企画し 添乗でも2回行く
 トルファンのカレーズで迷子になりかけたり(カレーズとブドウ畑 まさに天国のような美しさ) 旅程の都合でプロペラ軍用機で移動したり ウイグル族の家庭にお邪魔し長居し過ぎたり 砂漠の真ん中でみんなで寝転んで写真撮ったり 雪山に続く大地に放牧されているヤクの群れに目を奪われたり カシュガルの市場でウロウロし飲み過ぎ・食べ過ぎで用意してもらった昼食を食べきるのに苦労したり クンジュラブ峠~カラコルムハイウェイに続く道に思いを馳せたり 歌や踊りもありの楽しい夕食の後に夜遅くまでバーで話し込んだり・・河西回廊 天山南路 南疆鉄道のループ橋 交河故城 キジル千仏洞 アスターナ古墳群 バザール ウイグル族 エイティガール寺院 カラクリ湖 ヤクの群れ シシカバブ・・美しいだけのあの「ウイグル」何故 こんな風になってしまった!?


〇 毎日毎日 飲むコーヒーや毎日毎日 着ているそのファストファッション 多少高くても たまには「fairtrade(公正取引)」製品を購入してみる
・「fairtrade(公正取引)」(適正な報酬での取引):発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することを通じ、立場の弱い途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指すこと オルタナティブ・トレード(alternative trade)とも言う(ウィキペディアWikipediaより)
〇 「有機(オーガニック)綿花認証」製品を購入してみる(有機栽培繊維から作られた繊維製品の認証は 現在様々で実質的な世界標準になっている認証団体はない)


(冷たい泉に 素足をひたして 見上げるスカイスクレイパー 好きな服を着てるだけ 悪いことしてないよ~♪♪「Diamonds」(1989年 プリプリは嫌いではありません) ・スカイスクレイパー (skyscraper) :超高層建築物 摩天楼のこと)




054. 橋を架ける

・(12月03日)中国が推し進めている巨大経済圏構想「一帯一路」計画の下で建設された中国ラオス鉄道(中老鉄路)開通(完成は 12月02日(ラオス建国記念日))
 ラオスの首都ビエンチャンと中国国境のボーテンを結ぶ417km 全線電化・標準軌(軌間1435mm)の単線鉄道 国境の中国側の街 磨憨(モハン)で雲南省の省都昆明までの路線(596km)に接続し 国際鉄道を形成
 ラオス区間をすべて「中国規格」の鉄道として建設され 国境を越えて自国の車両が自由に行き来できる

 現在 タイ国鉄 同国東部のノンカイとラオス側のタナレーン駅(ビエンチャン近郊)間のわずか6kmを走る短距離の国際列車を運行している メーターゲージ(軌間1m)の線路はタナレーンからタイ、マレーシアを通ってシンガポールまで繋がっている「中国からの貨物をラオスまで運び、タナレーンでタイ行き貨車に載せ替えてASEAN各国に運べるようになるポテンシャルは大きい」と







*ラオスの課題
「債務の罠」
 ラオスは水力発電所の建設(メコン川のダム)でも中国の支援を受けており 中国への対外債務は国内総生産(GDP)の45%に達しており 債務返済による重負担が大きく 懸念される
 「債務の罠」:中国の融資を受けた途上国が返済困難となり、完成したインフラ施設を中国に明け渡すこと
「オーバーツーリズム」
 ラオスはこれまで「交通が不便」という事情もあって、古くからの文化や環境が守られてきた 特に ユネスコの世界文化遺産に登録されている古都ルアンパバーンは「アジア最後の桃源郷」ともいわれているが、ここにも 中国ラオス鉄道 が乗り入れることに
「水運開発計画」
(下図参照 中国は計画をいったん断念はしたものの・・・)
 中国雲南省からラオス北部の古都ルアンパバーン(ルアンプラバン)まで約890キロの間にある浅瀬や岩礁を爆破してしゅんせつし、2025年までに500トン級の船が通れるようにするもの(中国やミャンマーでは既に一部で爆破も行われた)
 川に沿って走るタイ-ラオスの国境線や環境に影響を与えるとしてタイ側が中止を求め、中国側が応じた 




 1980年ごろ 当時話題になっていた「ゴールデン・トライアングル」から バリ島まで旅した 当時 何故か 中国の雲南省~インドシナ メコン川流域に強くひかれていた(しかし この旅でメコンに接したのは ゴールデン・トライアングルでの一回だけ) この川を遡れば 雲南省かァと(中国で川の名はランカンまたはランチャン(瀾滄江)となる この川とは 後年 雲南省西双版納で再会することになる)

 まず バンコクへ飛び そこからチェンマイへ 鉄道か飛行機で行く(よく覚えていない そこから シンガポールまでは全てバス) タイ北部をウロチョロ  シサイだったかで ビルマへ公然の密出入境をし(国境の橋を 現地の人は自由に行き来している)市場で買った クジャクの羽束は いまだ 我が家の本棚に飾ってある)
  バンコクに戻ってからは チャオプラヤ川を水上タクシーで一日中 行ったり来たり・・・
 バスを乗り継ぎ 乗り継ぎで マレー半島大縦断(数ある タイ・マレーシアのビーチ・リゾートへは一切寄らず これらは後のお楽しみに)そして シンガポール


 当時 マラッカ海峡の水難事故が多く報道されており(満員の乗客を乗せた大型船が 転覆したとか なんとか・・・)で 船はやめる 空路 スマトラ島を飛び越え 赤道も飛び越え(初の赤道越え)直接ジャカルタへ 何故か インドネシアへ渡れてほっとする ジャワ島 ジョグジャ ブランバナン ボロブドゥール 田舎の村が本当にいい
 憧れだったバリ島へは 船で渡る ゆっくりと過ごす 各国のバックパッカーが わんさかいる みんな リラックスしている感じ 平和なもんだ・・

  夢見がちで または疲れ切ってか 帰国までの数日はまったく記憶にない ただ、自宅に戻り 銭湯に行った時のこと 頭を洗っていると ふと目の前をどぶ川が流れている 誰だ?こんな汚い頭 洗ってるのは?と・・・
  後日 新宿で飲んでいるとき インドシナ3国が 王国だった時に 旅したという人と知り合ったことがあった それはそれは 天国だったそうだ そんなところへ外国人として行ったら それはそれで面白かったのかもしれない 金子光晴は読んでいたが 時代は移ろうなァ

 ラオスには 苦い思い出がある 確か 1985年 旅行社で「ラオス ツアー」を担当した時のこと ラオスの国際旅行社との連絡は テレックス
 こんなやつ(下図)


 入国ビザを取るのは 現地 ビエンチャンの空港に到着後 そこのイミグレで取るしかないが 事前のパーミッション連絡がこない ツアー参加者のデータを送り 何度も ” TOP TOP TOP URGENT ” の電報(TELEX)を送るも 音沙汰なし
 来たのは 出発当日の朝(ツアーは 前日にキャンセル決定をしていた 約款や旅行契約書に明記されているとはいえ 期待が膨らんでいた参加者は全員落胆 なんせ ” 初 ” の(ラオス国際旅行社が受け入れる)ラオスツアーだった 航空券は JALの成田~バンコクの往復に バンコク~ビエンチャンの普通往復券を付けたもので 既に発券済み JALの規定で 当日キャンセル扱いとなり キャンセル料100%支払うことに
 後から「ビエンチャンまで とりあえず飛んでしまえば良かったのに」との声もあった・・もちろん 個人的にはそう思いました


 1994年以降 メコン流域 架橋が進み タイ・インドシナ3国は大きく変わっている

・「第1タイ・ラオス友好橋」完成(鉄道道路併用橋 1994年4月08日)(ヴィエンチャン - ノーンカーイ間)2009年3月5日より鉄道の乗り入れが開始 タイのノーンカーイ駅からラオスのターナレーン駅まで6.15kmが開業し、タイ国有鉄道によって1日2往復の定期国際旅客列車の運行が始まる

・「第2タイ・ラオス友好橋」開通(2006年12月20日)これにより ベトナム、ラオス、タイ、ミャンマーの国々が東西に結ぶ「東西経済回廊」が完成

・「第3タイ・ラオス友好橋」開通(2011年11月11日)

・「第4タイ・ラオス友好橋」開通(2013年12月11日)「アジアハイウェイ3号線」の一部 完成すれば中国雲南省昆明からラオスを経由し、バンコクにつながる陸路(南北経済回廊(東北回廊))による移動・輸送が可能になる


 カンボジアの500リエル紙幣には 日本のODAが無償協力で建てた二つの橋「きずな橋」「つばさ橋」が描かれている

・「きずな橋(第一メコン橋)」開通(2001年)カンボジア国内初のメコンにかかる橋
・「ネアックルン橋(第二メコン橋 通称 つばさ橋)」開通(2015年3月26日)ホーチミン - プノンペン - バンコクが陸路でつながる アジアハイウェイ(AH-1)の一部 ASEAN諸国の物流の生命線である「南部経済回廊(第2メコン東西回廊)」の一部をなす

・「ラオス・ミャンマー友好橋」開通(2015年5月09日)





(大河をさか上る・下ることに憧れがあるのだろう 1982年に ” 地中海一周 ”をした際 都合でエジプト・アブシンベルを諦めた 今度 いつかはと・・・ナイル川を船でさかのぼって アブシンベル そして スーダン~エチオピア~ケニア~タンザニアから 西海岸まで横断の旅の準備をしていた
 スーダンのビザも降り 来月には出発だとも思っていたが 前後して 一般旅行業務取扱主任者の合格通知が届く(勉強もしていたんですねェ)旅立ったら ブラック・アフリカにはまり もしかして半年? こりゃ 日本社会に復帰できんなァ
 う~ん。就職しよう!!ということで  アジア系の航空会社の東京事務所(大手ではありません)と旅行会社を見つけ出し 面接に行く 両方受かるも 旅行会社を選ぶ その後 約20年間 旅行業界でお世話になることに
 川は流れてどこどこ行くの~♪ 人も流れてどこどこ行くの~♪(喜納昌吉作詞・作曲))





055. CANCELLED


 飛行機には 何百回と乗っているが 今まで搭乗予定の便が欠航(キャンセル)になったことは 一回しかない(奇跡的である もしかしたら 空港でうまく立ち回り 別便手配で出発したか 手配ホテルに ただで泊りラッキーと思っていたのか そして そういうのは忘れている?)
 私的旅行で 欧州へは3度行ったが(もちろん貧乏旅行)その都度 どの便に乗るかは 大きな問題だった もちろん 英国航空(BA)だの エールフランス(AF)だの KLMオランダ航空などは 雲の上(もちろんJALなどは考えない)選択肢は アエロフロート ロシア航空(SU)か 良くて フィンエアー(AY)それか 南回り便 それも PKとかAIとかTGとかTK (安いが時間がかかるのである 当時は多少 不安もあった)から 選ぶしかない 値段と空き状況にもよる


 アエロフロート ロシア航空(SU)で行った時のこと SU便は全て モスクワ経由(モスクワ乗り換え)だが 何かの理由で モスクワ/パリ便が欠航となった 当時は ソビエト連邦(USSR)の時代(ブレジネフ・コスイギン体制だったか 懐かしい)出発は 翌朝だという
 当時のシェレメーチエヴォ国際空港は 暗くて寂しい印象 モスクワのどっかのホテルかと思いきや 空港内のトランジットホテルをあてがわれ もらったミールクーポンで飯を食った(ロシア料理?は旨かった)朝飯は出ない 空港コーヒーはいまいち
 そんなソ連も崩壊して今年で30年(ゴルバチョフが辞任して30年)もうそんなにたったのかという印象(ソ連崩壊の騒動の中で しばらくの間 モスクワ便全便が欠航になったこともあった)ロシアになって そしてプーチンになって ロシアはどう変わったのでしょう?)
 欠航のおかげで 長くいる予定もなかったけれど パリ滞在も数時間となり(前回10泊したので いいのである)マドリッド行きの列車に飛び乗る

・飛行機便は 様々な理由でキャンセル(欠航)となる


① 台風や大型台風やスーパー台風や大雪などによる欠航


② 火山の噴火による影響

 最近で大きなニュースになったのは
(2010年4月14日)アイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル火山爆破 偏西風によって火山灰被害広がり、西欧、北欧の10万を超える航空便がキャンセルされ、1000万人が影響を受けるなど重大な混乱を引き起こす


③ その国の治安状況や政治状況などにより その国への「渡航自粛勧告」等が出た場合
  例えば(1989年6月04日)中国 天安門事件 市民の民主化要求運動を共産党指導部が武力鎮圧  日本のTV局も各社が " 生中継 " をしていた  会社 で見ていたのだが (NHKだったと思う) その時の誰かの一言「中国には 放水車がないので いきなりこういうことをする」 と

・上図出典:朝日新聞デジタル

 この際 日本政府は 中国全土に対し「渡航自粛勧告」その後 1年間は 訪中観光客は ゼロに 中国直行便は全部キャンセルになる そんな中でも 中国に行こうという人は 香港経由で行くことになる 

 こんな事もありました
(2004年4月07日)「イラク日本人人質事件」人質バッシング、自己責任論争起こる
 これに対し米国のパウエル国務長官「誰もリスクを引き受けようとしなかったら、私たちには前進はなくなる。私は、あの日本市民たちが、より大いなる善のため、よりよき目的のために、すすんで自分の身を危険のなかに置いたことを嬉しく思っている。日本の人たちは、こういう人たちがすすんでああいう行動をとったことを誇りに思うべきだ」と
 仏紙ルモンド「日本人は人道主義に駆り立てられた若者を誇るべきなのに、政府や保守系メディアは解放された人質の無責任さをこき下ろすことにきゅうきゅうとしている」と
*(2021年10月19日)パウエル元国務長官死す(84) コロナ感染に伴う合併症で

・外務省は 「ゴルゴ13x外務省 海外安全対策マニュアル」を公開している


④ 感染症のパンデミックにより 各国が国境管理を厳格にする


 感染拡大防止のため 各地のカーニバル・フェスティバル・お祭りが中止となる  飛行機が飛ばない



(北米と南米には行ったことがありません 北米はあまり興味がなかったし 南米は高くて 時間もかかり 手が届かなかった 先日 マチュピチュへ行った人の話を聞いた 機内食が6回!
 今はナイアガラ瀑布とニューヨーク の旅に行きたい)

航空運賃と諸費用 (国際線の場合 航空会社や発着する国・地域・空港などで異なる)
運賃 航空会社に払う料金 路線・座席の種類・時期などで変動
燃油サーチャージ 燃油価格上昇時の追加料金 市場価格を基準に航空会社が2ヶ月ごとに見直し
航空保険特別料金 航空会社の損害保険料を一部負担 金額は航空会社で異なる
空港施設利用料 空港管理会社に支払う 金額は空港により異なる
空港税 出入国時に払う 出国税や入国審査料 税関審査料など





056.円相場(ドル)





・「円」を外国の通貨に換える際の交換比率が為替相場(需要と供給の関係で決まり、需給関係が変動すれば為替相場は変動する)
 テレビ等のニュースでは「本日の東京外国為替市場の円相場は……」と報道されます つまり、円と外貨との交換比率(為替相場)は日々刻々と変動している



*為替レートが動く主な要因

景気の良しあし 景気が良くなればモノが売れるので 外国から資金が集まり その国の通貨が買われやすくなる
経常収支 経常収支が黒字なら国内に入ってくるお金が出ていくお金より多いため その国の通貨が買われやすくなる
2国間の金利差 高金利の通貨で保有する方がより多くの金利収入が得られるため 高金利通貨は買われやすくなる








欧州中央銀行(ECB)ラガルド総裁 (9月08日)「中期的にインフレ率を2%に戻すために必要な措置を取っていく方針だ」政策金利を0.75%ポイント引き上げ 一段の利上げの可能性を示唆
米連邦準備理事会(FRB)パウエル議長 (8月30日)「(成長鈍化などの「痛み」を伴ったとしても)インフレが抑制されるまで「当面」金融引き締めが必要」と 物価上昇抑制のため 一段の利上げ実施を表明
日銀の黒田総裁 (7月21日)「金利ちょこっと上げても円安は止まらない」「使命である物価安定目標の実現を目指して金融政策を実施する考えに変わりはない」と 緩和継続を強調



・(1964年4月1日)海外渡航自由化(1人年1回 海外持ち出し500ドルまでの制限付き そのころは固定相場制で 1$=360円)
 「海外渡航の自由化から1週間後の4月8日にJTBが主催した ハワイ9日間「第1回ハワイダイヤモンドコース旅行団」の旅行代金は 当時の国家国務員大卒初任給(1万9100円)の19倍という36万4000円  1965年4月10日に出発した「ジャルパック/ヨーロッパ16日間コース」は67万5000円だ
 これらを現在の物価に換算すると JTBのハワイツアーは400万円 ジャルパックのヨーロッパツアーは700万円に相当 誰もが行ける価格ではなかったが それでも1964年の出国者数は12万7749人になった」
(以上 出典:観光産業ニュース トラベルボイス)

・(1977年1月20日 1$=170円前後)米国でジミー・カーター大統領 就任 (1978年11月1日)ドル防衛策発表(カーターショック)その後 ドル高円安 基調に(1985年9月22日の「G5プラザ合意」(ドル高 是正)まで続く)
 そのころは、学生だったが 配膳人のバイトをして 金をためては海外貧乏旅行を楽しんでいた(航空券代を除き 1000ドル貯めては 1ヶ月旅行 2000ドル貯めては 2ヶ月旅行と)ドル高円安が進み その時期は 1$=200~250円 金は なかなか 貯まらない
 ジミー・カーターには ホテル・オークラで ミネラルウオーターか日本茶かをサービスしたことがある 気のいいアメリカ人という感じで親しみが持てた 今はどうか知らないが その頃は外国賓客を招いての皇居での晩餐会やら首相官邸や外務省飯倉公館での晩餐会やらの給仕(料理の取り分けやらワイン等の飲み物サービス等 よく見るあの黒服を着たボーイです)は「時間給のアルバイト配膳人」がやっていたのです(時給はそれなりに良い)

・(1982年ごろ)アルジェリアからチュニジアへ列車で国境越えをした時の話 列車内でひととおりのパスポートチェック・通関が済んで「やれやれ」と発車を待っていた しかし なかなか発車しない 別の係官が来てそこらにいた外国人バックパッカーを含め 徹底検査される 結果「外国為替法違反?」(要するに申告以上のドル札を持っていた 闇札(闇ドル)ですね(旅行費用は別に 米ドルのトラベラーズ・チェックで持っており その都度両替していた これもまた、両替所により手数料は違う 交換レートも違う)で 一泊留置(逮捕?留置されたのは 生涯この一回のみ)その際 マリワナを持っていたやつもおり 一瞬 映画「ミッドナイト エクスプレス」が頭をよぎる 一泊で済んだが ” 闇札"は全て没収 痛かった
 チュニジアン・ブルーに癒されたのも束の間 カイロ行きの航空券代が高騰しており(これも痛かった)いわゆる「国際学生証」なるものは用意し学割チケットだったのだが。当時 リビアはカダフィの時代で陸路通過などもっての外 空路で行くしかない ドルはどんどん減っていく
 当時 ガイドブック「地球の歩き方」は出たばかりで その内容・情報もひどく「地球のだまし方」と揶揄されていた 頼りにしたのは「オデッセイ」という雑誌 これはなかなかのものでした
 「今回 東欧はあきらめよう」と決め エジプト・ヨルダン・イスラエル・ギリシャ・イスタンブールとゆっくり廻った後 アムステルダムまでは「マジック・バス」 同じような面々と確か5泊6日 同じ飯を食い 宿は安ホテル(飯・宿付きのオンボロ・バスツアー)
  バルカン諸国と東欧は 後年 リッチな旅行の添乗員として訪れることになる(1985年前後)特に東欧では まだ、米ドルキャッシュの威力は強烈なものでした(「ベルリンの壁崩壊」は 1989年11月9日)

・(1985年9月22日)「G5プラザ合意」(ドル高 是正)翌日 ドル暴落(1$=250円 から 1$=150に暴落)日本は 円高不況を経て「バブル景気」へ

・(1989年12月29日)東証の大納会で日経平均株価が史上最高値の38.915円87銭を記録 これを最後に1990年大発会から株価は下落に転じ、「パブル経済崩壊」へ(大蔵省銀行局長通達「不動産融資総量規制」が出された1990年3月27日をバブル経済崩壊のその日とする説もあり)その後の「失われた20年」を日本にもたらす

・(1995年4月19日)この日 初めて1$ =80円突破(一時的に79円75銭を記録)ずっと円高が進んでいたそのころ 何度もGROUP TOUR FEE を送金してその度に為替相場に一喜一憂していたが この円高。
 ふと 1000ドル札が欲しくなり 馴染みの送金窓口の人に その入手を頼んでみたが まず出てこない(偽札防止を理由に 1946年を最後に米国では500ドル以上の札の印刷は廃止され、1969年には$100を超えた額面のお札は回収され、流通が取り止められていたことが分かる)この年 支店は違うが 同じ銀行で20年の住宅ロ-ン(固定金利 3.3%)を組みマンションを購入 何かの縁と感じました

・(2011年10月31日)1$=75円32銭 戦後最高値更新!「甚大な被害があった同年3月の東日本大震災をうけ、多額の保険金の支払いが予想される保険会社や復旧のための資金が必要な大企業が外貨建ての資産を売却して円資産を確保するのではという思惑が投資家に広がり、円買い・ドル売りを誘った」と

・(2021年2月15日)東京株式市場 日経平均株価が一時 3万円の大台を回復 1990年8月以来 30年6カ月ぶり(為替相場は 1$=110円 前後で推移 住宅ローン金利は 変動金利:0.3~1.4% 固定金利:1.1~1.9%くらい)





(為替相場は気になるも このキャッシュレス決済の世の中 あのドル札の束に触れることはもうないかも 1$も5$も10$も20$も50$も100$も変わらないあの同じ大きさのあの青緑の米ドル札・・)




057. 海峡

・ボスポラス海峡
 スペイン~北アフリカ~中近東とメリハリのある旅を続け やっとギリシャ そしてイスタンブールへ 昼も夜も東西回廊(アジアとヨーロッパにまたがる)イスタンブールを歩き ボスポラス海峡も堪能していましたが ボスボラス海峡の北は黒海・クリミア半島に 南はマルマラ海・ ダーダネルス海峡を通じてエーゲ海(地中海)に繋がっていることは ” わかって " いなかった まったく意識の外でした 思いがけず地政学的な拠点に身を置いていたことになる
 当時 トルコは「9月12日軍事クーデター」(1980年)全土に戒厳令布告の軍政 ~ 民政移管(1983年)の暗黒の時代 イスタンブールは 熱狂・混沌・暗黒が入り混じっていた(クルド人組織によるテロ等多くの問題を内包)特に夜は街角に軍人なのか警官なのかが目立つ感じ
 とはいっても 憧れのイスタンブール トプカプ アヤソフィア ブルーモスク グランバザール ガラタ橋 行きかう船の霧笛 狂熱のベリーダンス 忘れじのガラタタワー(1348年 石造りの塔 9階立て高さ66.9m)ご無事でしょうか?
・ (2013年10月29日)「トルコ150年の夢」マルマライ(ボスポラス海峡横断鉄道トンネル ヨーロッパとアジアを結ぶ 13.5km)開業(3つの海底駅がある)
・(2022年3月18日)ダーダネルス海峡(チャナッカレ)に主塔間が世界最長(2.023m)のつり橋「チャナッカレ1915橋」完成(全長は3.563m 明石海峡大橋の3.911mより短いが 主塔間は 明石海峡大橋の1.991mを32m上回っている)
■ 西アジア・中東地域:15世紀以来 オスマン帝国が広大な地域を支配していたが20世紀初め 第一次世界大戦に敗れ 滅亡する 国民国家トルコは 誕生するが アラブ地域は 英仏により分割統治される 幾つかのアラブ国家は 独立へ 英が 委任統治領としたパレスチナへは 大量のユダヤ教徒が 移住 パレスチナとイスラエルの紛争が始まる
■ 英の3枚舌外交:それぞれ、アラブ・フランス・ユダヤに配慮した内容
・フサイン=マクマホン協定(アラブに独立国家を約束)(1915年10月)
・サイクス・ピコ協定(英仏露による中東分割)(1916年5月)
・バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ国家建設を支持)(1917年11月)
 これにより第二次世界大戦後のパレスチナ問題や不自然な国境で分断されているクルド人問題など多くの問題の根っことなる



 




・津軽海峡
 当時 月1~2回 北海道に渡っていた 半分は 羽田~新千歳♪♪ 半分は フェリー その日は たまたま青森発 1988年(昭和63年)3月13日「青函連絡船」最期の日でした(青函トンネルが 開通した日) 最終便ではありませんでしたが 「ボ~」 という汽笛 大音響の「津軽海峡・冬景色」♪♪(しみましたァ~)銅鑼は鳴ってなかったと思う

津軽海峡・冬景色(唄:石川さゆり)
 作詞:阿久悠 作曲:三木たかし

上野発の夜行列車 降りたときから
青森駅は 雪の中
北へ帰る人の群は 誰も無口で
海鳴りだけを きいている
私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうな鴎見つめ 泣いていましたワ
ああ 津軽海峡 冬景色



 青森県・北海道 仕事で行っているにも関わらず 冬の猛吹雪 浅虫・登別などのあったか~い温泉 わざわざ乗りに行ったストーブ列車 秋の奥入瀬渓谷 馴染みの居酒屋・繁華街 地場のごちそう 真夏の北海道の大自然 堪能していました!
 現在は 津軽海峡フェリー等 各社が 各地から~北海道に 運行しています





・ドーバー海峡(英仏海峡)
・(1979年5月04日)「鉄の女」マーガレット・サッチャー首相就任 「英国病」(「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる過度に充実した社会保障制度 基幹産業国有化等による高コスト・低効率・国民の勤労意欲低下・巨大化した労働組合が組織する労働争議の頻発などによる経済や社会のマヒ状態)に陥っていたイギリスを「新自由主義」のもと 基幹国有産業(電話・ガス・空港・航空・自動車・水道など)の民営化と規制緩和・金融システム改革を強いリーダーシップで断行 さらに改革の障害になっていた労働組合の影響力を削ぐ
 インフレの抑制(就任当初 インフレーション率は27パーセントを記録していた )には成功したが 失業者数は倍増 1982年には300万人を上回り(世界恐慌以降最悪の数字を記録 その後も1986年半ばまで減少せず)そして 格差は 拡大する さらに IRAによる爆弾テロは頻発していた(サッチャー退任は 1990年11月28日)
 そんな時代に 欧州の旅へ ちょっとロンドンにドーバー海峡を渡って行ってみようと思い カレーに向かう 英国ドーバーに向かう国際航路には何の高揚感もなくどう見ても経済的に厳しい状況にあるような人々で混みあっている
 ロンドンは 流石にロンドンであり 多少薄暗く淀んでいたが 素晴らしかった 宿は高い・飯もまずくて高い そそくさとパリに戻りました イギリスの何たるかも解らず ロンドン以外どこにも行かず・・・イギリスはまたの機会にと そして 西ドイツへ向かう
・(1994年5月6日)ドーバー海峡下に英仏海峡トンネル(ユーロトンネル)が開通 高速鉄道ユーロスターの運行開始



・ポーク海峡
・デカン高原~ベンガル湾~ほっとする南インドの田舎 スリランカ行きの船が出るラメシュワラム 良く寝た早朝に浜に出た ラメシュワラムの浜辺から 朝日ととも 朝日を浴びて 朝日に照らされながら いっせいに出港する多くの帆掛け漁船 彼らの生活 日々の営みは美しいに違いない
・スリランカ(インド洋の真珠と呼ばれていた)へは3時間ほど コロンボへは素晴らしく美しいコンパートメント列車で 途中 同部屋の紳士が窓から何かの果物を捥いでくれる たまらなく美味しかったのを覚えている
・中部キャンディで象祭りがあると聞き 見に行く ざっと10万人程の人々が 美しく着飾った象が来るのを待っている すべての道路が人々でいっぱい しかし 象の列ははるか先の道を左折し 待っている場所には来ないことがわかる 人々は一瞬がっかりするのだが それでも遠くで見たことに満足しているのだろうか みんな乱れることもなく楽しげなのである
・インドは 強烈でした。「インド人間ツアー」というのを利用したのですが ツアーといっても バンコク経由の航空券に(直行便ではなく バンコクに一泊なのである)到着日と帰国日前日の安ホテルが付くというもの ツアーを教えてくれたのは 当時池袋にあった格安航空券専門旅行社 NTSトラベルボックス 10代で行きたかったが 都合で二十歳になっていた 取得したVISAは 30日有効のマルチビザ
・インドは強烈でした。人間臭く 力強いところでした 朝早くから飽かずに眺めていたガンガーと沐浴 ボートで連れていかれた島のシタールとインド舞踊の共演 パトナの空港外で寝起きする奇病の集団 パトナ~カトマンズの飛行機便(大きく揺れるのである) ポカラでボートから飛び込んだ真っ黒な湖と現れなかったヒマラヤの山々 カルカッタの雑踏(牛もリキシャも人間も4輪車も2輪車も荷車も乞食も仙人?も しかし渋滞はない)リキシャを懸命にこぐ運転手(重労働である)雑踏のバザールと旨いものが食える屋台 至るところにインドの神々「バクシーシ」と迫る板車に乗る両足を落とした人々に囲まれた夜 完璧な関西弁で脅してくるブッダガヤの不良少年達 ネパールの少女達を侍らせている日本人の破戒僧 ニワトリやヤギも乗る自由席車両でのデカン高原2泊3日 そんなところでの爆睡 鉄格子の車窓から見える朝日や夕日やしゃがんで(うんこしているのである)こっちを眺めている人々 道を聞いたら「バクシーシ」と手が自然に出る(納得)道路でのんびりとしている牛たちを見ながら食べた恐ろしく硬い牛ステーキ 人々の目は美しく神々しく力強く純真に見えた 出会ったすべての人々は力強く生き延びているだろう すべての人は「人間」 なのであると思い知ったインドでした



・対馬海峡
 釜山は港です 日本から 対馬海峡を越えれば そこが釜山ですが そこは 朝鮮半島の玄関口であってほしい 大陸にもそのまま行ける玄関口であってほしい

→ ブログ「009. ダイバーシティ」もご覧ください


・ジブラルタル海峡
 スペインを堪能し 通過儀礼のように アルハンブラ宮殿へ そして 熱病に侵されたように 欧州最南端タリファ岬へ(当初は ユーラシア大陸最西端 ポルトガルのロカ岬(「ここに地終わり海始まる」と刻んだ石碑が立つ)にも行こうと計画していたが 現地に行ったらそんな思いはすっ飛ばされる)ここから海峡を越え アフリカへ 船上では 高揚感いっぱい 自由を謳歌する各国のパッカー達も多くいる
 そのアフリカは サバンナに動物が闊歩するアフリカではなく かっての未開の地 ブラックアフリカでもなく イスラム系アフリカ その玄関口 タンジェ 当時の旅の情報誌「ODYSSEY」には 「タンジェ港に着くのは 真夜中 なんとかタンジェ駅へ行き そこに列車が停車しているので 車掌を何とか探し出して 2等の乗車券を買う(3等は危険)そして列車に乗り込もう」と
 まったく その通りとなる 駅もほぼ真っ暗 列車が薄明るく浮かび上がっている 3等乗車券を持ち カモを探し出そうとする不良少年たちがウジョウジョ 真剣な顔で(多少以上に怖い)乗車券をゲットできた各国の似たようなパッカー達と2等のコンパートメントに滑り込む 3等野郎が 強引に入り込んで来ようとする「おまえの席はここじゃないだろう!」と各国語でどなりつけ(たぶん そう言った) そこでひと悶着 車掌が回ってきて何か言っている  列車が発車し コンパートメントのドアを閉め ほどなく爆睡 疲れた
 カサブランカを楽しみ マラケシュの旧市街を彷徨ったり・・・ 北部のアルジェリアへの陸路越境は 国境封鎖により不可能と(両国の関係悪化による) どうしても 陸路越境したければ 南部へ行って 砂漠を歩けと その通りにする(それ以外に方法がない) 砂漠といっても 砂丘ではなく 硬く乾ききった荒れ地という感じ 時間はかかるのである(3時間ほど歩いたように思う 今から思うとなかなかの冒険か)
 アルジェリアが また素晴らしい 特にコンスタンティーヌは忘れがたい「ここは 地の果てアルジェリア♪♪」



・(付録)カイロ~ヨルダン~イスラエル~ギリシャ
 ルクソールを諦め 乗り合いバスで カイロからヨルダンへ スエズ運河を渡ったはず(覚えていない)~シナイ半島を横断(あまり覚えていない)~イスラエル検問所を一旦入国・出国(覚えていない)
 そしてヨルダン なんといってもペトラ 断崖絶壁に囲まれた狭涼しい一本道(シク)を ロバに乗って進むこと30分 目の前が急に開け宮殿が現れるという 衝撃
 そして エルサレムへ 入境のパーミションをもらいに イスラエル連絡事務所か大使館みたいなところへ行ったのだが 建物の周りに うつ伏せになった兵士に 本気でライフルの銃口を向けられる(異様な感じ ゾクッとする)エルサレムへはタクシー ヨルダン川の川幅は ほんの2mほどの小川(教えてもらう) 家1件分ぐらいの大きさのイスラエル軍の戦車が 急回転・急Uターンなどして 威圧している 何かの領収書みたいなものを 風で飛ばしてしまい それを拾おうとしてタクシーを下りかけると 運ちゃんが慌てふためき そんなものはいいと 急発進
 イスラエル側の検問所で 若い兵士にバックパックのフレームをすべて分解される 航空券を持っているかと問われ ギリシャへ飛ぼうと思うがチケットはまだ買っていないというと困ったような顔をする パリ発の帰国便の航空券を見せると これでOKとされ放免
 エルサレムの旧市街 観光客?がわんさか 若い兵士のグループが非番なのだろうか 楽しそうに買い物を楽しんでいる しかし みんな軍服 肩には自動小銃 何とも言えない雰囲気だが 空は明るい アテネへは テルアビブから飛んだ






058. 失われしもの



 「プーチンが始めた戦争」により 黒海は封鎖され ウクライナは穀物を輸出できず 世界的な食糧の供給不足が懸念されている


・円安・原油高・穀物の供給不足が重なり 値上げラッシュに

・上記出典:東京新聞

「失われしもの」
 ある寒い冬の日 「シベリア鉄道」と「冬のシベリア」を体験したいと ソ連へ 開業間もない上越新幹線で新潟へ そして さらに寒いハバロフスクへ 「シベリア鉄道」の端っこ ハバロフスク~ウラジオストク間を乗車
 列車は ” 貨物専用石炭長距離列車 ” に コンパートメント車を連結したという印象 ユーラシア大陸の端っこ・極東とはいえ タイガを駆け抜け 何か「大陸」を感じた初めての経験(窓の外は -30度以下)同じコンパートメントのロシア人の家族も「古き良き」というのでしょうか「大陸的」で心温まる
 当時のソ連に関わる印象的な " 事件 " は まず 教科書に出ていた「ガガーリン(地球は青かった)」(1961年)そして「プラハの春」(1968年)の武力鎮圧 そして ミュンヘンオリンピック(1972年)の男子バスケットボール決勝「ソ連 VS アメリカ」
 残り3秒 時計の針が戻され ゴールリング下の選手に 反対側のサイドエンドから遠投 見事 ソ連選手がキャッチ そして逆転ゴール(同時に試合終了)ソ連は喜び爆発 米国は 表彰式と銀メダル授与を拒否し帰国 これら(ボリショイサーカスや冷凍マンモスやらも)を通して なんとなくソ連を感じていました


 (別の年)もう一方の鉄道の端っこ モスクワ~レニングラード(サンクトペテルブルクへの改名は1991年)厳密には シベリア鉄道の一部ではないが ターミナル駅からの乗車感もあり うれしかったものだ(伝統の寝台特急「赤い矢」号に乗りたかったが キップが取れず 確か1時間後の別の列車に乗車 これもまた豪華)
 フィンランド湾を望むサンクトペテルブルク(通称 サンクト)は また 素晴らしく ほとんどが ロシア帝政時代(ロマノフ朝)の遺産ではあるが 息をのむエルミタージュ美術館 楽しい「ペテルゴフ(夏の宮殿)」(歩いていると突然 小さな噴水が 足元からいくつもあがる)などなど全てが美しいという印象


シベリア鉄道 モスクワ - ウラジオストク間9,289km 世界一長い鉄道「ロシア号」はモスクワのヤロスラフスキー駅を出発し ウラジオストク駅まで約7日間をかけて走破する これとは別に 第二シベリア鉄道(バイカル・アムール鉄道、バム鉄道)もある(空路を除くと最短・最速の北東アジア~欧州の貨物輸送ルート)




(「ロシアという国は、我々日本人にとって不思議な国だと思う」と言ったのは誰だったか
 帝政ロシア~ソ連~ロシア連邦と 長年 最も警戒すべき隣人の一つだった しかし その反面 その音楽、文学、映画、料理などの文化やスポーツは 日本人に愛され続けてきたものが多い
 音楽では チャイコフスキー、ラフマニノフ、ストラヴィンスキー・・・数多くのロシア民謡
 小説ではトルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、ショーロホフ、ツルゲーネフ・・・


 映画では エイゼンシュテイン、タルコフスキー、ニキータ・ミハルコフ・・・
 料理では ボルシチ、ビーフストロガノフ、ピロシキ 、ロシアケーキ それにウォッカ・・・
 スポーツ選手では ヒョードル、プルシェンコ、エレーナ・イシンバエワ、フィギュアや体操の妖精たち 多くのバレエダンサー・・・そして ボリショイサーカス
 私たちの生活に溶け込んだロシア文化は枚挙に暇がない
 ロシア語習得のため バレエやピアノのレッスンのため ロシア留学を目指していた若者の多くが断念する
 シベリア鉄道での物流を強化してきた日本の企業は 今後どう対応していくのか・・「脱ロシア」の動きは止まらない


 「ヴォルガの舟歌」「赤いサラファン」「トロイカ」「ステンカ・ラージン」「カリンカ」「一週間」「さすらい人 (バイカル湖のほとり)」「黒い瞳」「行商人」「アムール河の波」「カチューシャ」「ともしび」「モスクワ郊外の夕べ(モスクワの夜はふけて)」
 これらの「ロシア民謡」(ロシア料理店での楽しい夕べ)も懐かしいが 全てが今となっては「失われしもの」
 すべての「ロシア的」なものに 今はせめて「ダスヴィダーニャ(До свидания)直訳すると「また会いましょう」)




059.

9月 航空便・日程
05日(木) 17:15 NRT発 UA789
16:50 EWR着(12h35)
NYC泊
06日(金) ・終日 フリー
07日(土) 日帰りナイアガラ観光
08日(日) ・出発まで フリー
16:29 EWR発  UA2294
19:24 LAS着(5h45) 
LAS泊
09日(月) 1泊2日 グランドサークルツアー VIEW泊
10日(火) LAS泊
11日(水) 06:00 LAS発 UA2650
07:16 LAX着(1h16)
・着後 フリー
・LAD vs CHC
LAX泊
12日(木) ・終日 フリー
13日(金) 12:45 LAX発 UA7945 機中泊
14日(土) 16:30 NRT着(11h45)   

 


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060.




2022年02月17日