035. 円相場(ドル)

 


・「円」を外国の通貨に換える際の交換比率が為替相場(需要と供給の関係で決まり、需給関係が変動すれば為替相場は変動する)
 テレビ等のニュースでは「本日の東京外国為替市場の円相場は……」と報道されます つまり、円と外貨との交換比率(為替相場)は日々刻々と変動している


*為替レートが動く主な要因

景気の良しあし 景気が良くなればモノが売れるので 外国から資金が集まり その国の通貨が買われやすくなる
経常収支 経常収支が黒字なら国内に入ってくるお金が出ていくお金より多いため その国の通貨が買われやすくなる
2国間の金利差 高金利の通貨で保有する方がより多くの金利収入が得られるため 高金利通貨は買われやすくなる

 



・(1964年4月1日)海外渡航自由化(1人年1回 海外持ち出し500ドルまでの制限付き そのころは固定相場制で 1$=360円)
 「海外渡航の自由化から1週間後の4月8日にJTBが主催した ハワイ9日間「第1回ハワイダイヤモンドコース旅行団」の旅行代金は 当時の国家国務員大卒初任給(1万9100円)の19倍という36万4000円  1965年4月10日に出発した「ジャルパック/ヨーロッパ16日間コース」は67万5000円だ
 これらを現在の物価に換算すると JTBのハワイツアーは400万円 ジャルパックのヨーロッパツアーは700万円に相当 誰もが行ける価格ではなかったが それでも1964年の出国者数は12万7749人になった」
(以上 出典:観光産業ニュース トラベルボイス)

・(1977年1月20日 1$=170円前後)米国でジミー・カーター大統領 就任 (1978年11月1日)ドル防衛策発表(カーターショック)その後 ドル高円安 基調に(1985年9月22日の「G5プラザ合意」(ドル高 是正)まで続く)
 そのころは、学生だったが 配膳人のバイトをして 金をためては海外貧乏旅行を楽しんでいた(航空券代を除き 1000ドル貯めては 1ヶ月旅行 2000ドル貯めては 2ヶ月旅行と)ドル高円安が進み その時期は 1$=200~250円 金は なかなか 貯まらない
 ジミー・カーターには ホテル・オークラで ミネラルウオーターか日本茶かをサービスしたことがある 気のいいアメリカ人という感じで親しみが持てた 今はどうか知らないが その頃は外国賓客を招いての皇居での晩餐会やら首相官邸や外務省飯倉公館での晩餐会やらの給仕(料理の取り分けやらワイン等の飲み物サービス等 よく見るあの黒服を着たボーイです)は「時間給のアルバイト配膳人」がやっていたのです(時給はそれなりに良い)

・(1982年ごろ)アルジェリアからチュニジアへ列車で国境越えをした時の話 列車内でひととおりのパスポートチェック・通関が済んで「やれやれ」と発車を待っていた しかし なかなか発車しない 別の係官が来てそこらにいた外国人バックパッカーを含め 徹底検査される 結果「外国為替法違反?」(要するに申告以上のドル札を持っていた 闇札(闇ドル)ですね(旅行費用は別に 米ドルのトラベラーズ・チェックで持っており その都度両替していた これもまた、両替所により手数料は違う 交換レートも違う)で 一泊留置(逮捕?留置されたのは 生涯この一回のみ)その際 マリワナを持っていたやつもおり 一瞬 映画「ミッドナイト エクスプレス」が頭をよぎる 一泊で済んだが ” 闇札"は全て没収 痛かった
 チュニジアン・ブルーに癒されたのも束の間 カイロ行きの航空券代が高騰しており(これも痛かった)いわゆる「国際学生証」なるものは用意し学割チケットだったのだが。当時 リビアはカダフィの時代で陸路通過などもっての外 空路で行くしかない ドルはどんどん減っていく
 当時 ガイドブック「地球の歩き方」は出たばかりで その内容・情報もひどく「地球のだまし方」と揶揄されていた 頼りにしたのは「オデッセイ」という雑誌 これはなかなかのものでした
 「今回 東欧はあきらめよう」と決め エジプト・ヨルダン・イスラエル・ギリシャ・イスタンブールとゆっくり廻った後 アムステルダムまでは「マジック・バス」 同じような面々と確か5泊6日 同じ飯を食い 宿は安ホテル(飯・宿付きのオンボロ・バスツアー)
 バルカン諸国と東欧は 後年 リッチな旅行の添乗員として訪れることになる(1985年前後)特に東欧では まだ、米ドルキャッシュの威力は強烈なものでした(「ベルリンの壁崩壊」は 1989年11月9日)

・(1985年9月22日)「G5プラザ合意」(ドル高 是正)翌日 ドル暴落(1$=250円 から 1$=150に暴落)日本は 円高不況を経て「バブル景気」へ 

・(1989年12月29日)東証の大納会で日経平均株価が史上最高値の38.915円87銭を記録 これを最後に1990年大発会から株価は下落に転じ、「パブル経済崩壊」へ(大蔵省銀行局長通達「不動産融資総量規制」が出された1990年3月27日をバブル経済崩壊のその日とする説もあり)その後の「失われた20年」を日本にもたらす


・(1995年4月19日)この日 初めて1$ =80円突破(一時的に79円75銭を記録)ずっと円高が進んでいたそのころ 何度もGROUP TOUR FEE を送金してその度に為替相場に一喜一憂していたが この円高。
 ふと 1000ドル札が欲しくなり 馴染みの送金窓口の人に その入手を頼んでみたが まず出てこない(偽札防止を理由に 1946年を最後に米国では500ドル以上の札の印刷は廃止され、1969年には$100を超えた額面のお札は回収され、流通が取り止められていたことが分かる)この年 支店は違うが 同じ銀行で20年の住宅ロ-ン(固定金利 3.3%)を組みマンションを購入 何かの縁と感じました

・(2011年10月31日)1$=75円32銭 戦後最高値更新!「甚大な被害があった同年3月の東日本大震災をうけ、多額の保険金の支払いが予想される保険会社や復旧のための資金が必要な大企業が外貨建ての資産を売却して円資産を確保するのではという思惑が投資家に広がり、円買い・ドル売りを誘った」と


・(2021年2月15日)東京株式市場 日経平均株価が一時 3万円の大台を回復 1990年8月以来 30年6カ月ぶり(為替相場は 1$=110円 前後で推移 住宅ローン金利は 変動金利:0.3~1.4% 固定金利:1.1~1.9%くらい)










・外貨建て一時払い終身保険の代理店手数料は9%を超えることも



 ・上記:「外貨建て保険」への苦情件数


●「為替変動リスク」(為替相場を読みきれる人はいない!)、「為替手数料」(決して侮れない)、「金利差の縮小」(数年前に比べ 円と外貨の金利差は僅差 米・豪・ニュージーランド等が 高金利で有利と言われていたのは もはや昔の話)これらに加え 知れ渡ってきている「安くない手数料 / コスト」(代理店手数料や保険会社の運用費用等)や「苦情の多さ」
 これらの要因で「外貨建て保険」の売れ行きは急激に鈍っている こんな中 保険会社が「外貨建て保険」に替えて 勧めるのが「変額保険」だが・・・ 




「変額保険」のデメリット
●保険料の一部を「特別勘定」として株式投資信託などで運用 死亡保障と運用商品がパッケージになっているので 保障と運用の両方に手数料がかかる
 (保障と資産形成を両立できる一石二鳥の商品に思えるが 長期の資産形成を第一に考えれば、税制優遇やコストの面で「iDeCo(個人型確定拠出年金)」や「つみたてNISA」を活用した方が有利となる)

●投資対象とする投信を組み替えながら保険料を運用する仕組み 運用実績に応じて満期時の保険金や解約返戻し金が大きく変わる 特に契約後10年以内に解約すると初期手数料がかかっている影響で払い込み実績を大きく下回る
(ただし あくまで保険であるため 運用成果とは無関係に「死亡保障」は付いてくる)

*その他の外貨投資

 


(為替相場は気になるも このキャッシュレス決済の世の中 あのドル札の束に触れることはもうないかも 1$も5$も10$も20$も50$も100$も変わらないあの同じ大きさのあの青緑の米ドル札・・ 旅ネタが続く よほど旅に出たいのだろうな)

2021年09月23日